会社を売却した。あるいは上場し、保有株の一部を現金化した。長く一点に向けてきた緊張が解け、口座にはこれまで見たことのない桁の数字が並ぶ。多くの起業家が、この時期に財団を作る。買収から数年と経たないうちに、自らの名を冠した、あるいはあえて冠さない財団が立ち上がる。なぜ、よりによってこの瞬間なのか。そして、なぜ寄付や投資ではなく、財団という重い器を選ぶのか。イグジット世代の振る舞いには、富と意味をめぐる現代的な力学が、くっきりと現れている。
「イグジット直後」という特異点
イグジットは、富の性質を一夜にして変える。それまで創業者の資産は、ほとんどが自社株という形をとっていた。紙の上では巨額でも、動かせず、分散もできず、事業と運命を共にする資産である。売却や上場は、この凍りついた富を、自由に使える流動性へと変える。そして流動性は、人に問いを突きつける。これだけの自由を、何に向けるのか、と。
同時に、イグジットは時間と自己定義の空白を生む。会社という、毎朝起きる理由であり、自分が何者かを説明してくれる装置を、創業者は手放す。エネルギーも能力も人脈も残っているのに、それを注ぐ対象が消える。この空白は、しばしば居心地が悪い。財団の設立が買収の直後に集中するのは、偶然ではない。手にした流動性と、空いた時間と、行き場を失った自己定義——この三つが同時に立ち上がる特異点こそが、フィランソロピーへの入口になる。
三つの動機
イグジット起業家が財団に向かう動機を、三つに整理してみたい。いずれも、単なる節税や社会的体裁では説明しきれないものである。
第一に、意味の再設計。事業の成功は、富という結果を残すが、「なぜ働いてきたのか」という問いには答えてくれない。むしろ、目標を達成してしまったあとにこそ、その問いは大きくなる。財団を作るという行為は、稼ぐことの先にある目的を、もう一度自分の手で定義し直す作業である。何に怒り、何を変えたいと思ってきたのか。事業の慌ただしさの中で言語化されなかった価値観が、ここで初めて主題になる。
第二に、能力と時間の転用。起業家は、ゼロから組織を立ち上げ、人を巻き込み、不確実性の中で意思決定する技術を持っている。この技術は、社会課題に対しても有効である。多くのイグジット起業家が、小切手を切るだけの寄付に物足りなさを覚え、自ら運営に関与できる財団を選ぶのは、培った能力を遊ばせたくないからだ。彼らにとって財団は、引退の象徴ではなく、次の事業の器に近い。
第三に、物語の接続。創業の物語と、富をどう使うかという物語を、一本の線で結びたいという欲求がある。自分はなぜこの事業を起こし、何を世に問うたのか。その問いを、富の使い方によって完結させたい。教育で苦労した者は教育に、病で身近な人を失った者は医療に向かう。フィランソロピーは、事業人生の続編であり、来歴と未来をつなぐ物語の装置になる。ナラティブの設計がこの世代にとって本質的なのは、ここに理由がある。
なぜ「財団」という重い器なのか
動機があるとしても、なぜ直接寄付や冠基金ではなく、設立も運営も負担の重い財団なのか。理由はいくつかある。財団は、意志に寿命を与える。創業者個人の気まぐれや健康に依存せず、目的を制度として持続させられる。また財団は、器そのものが意思表示になる。自分の名や理念を掲げた法人を残すことは、社会に対する公的な約束であり、撤回しにくい分だけ本気度が伝わる。そして財団は、人を集める核になる。事務局、理事、助成先——目的を共有する人々が周囲に集まり、創業者ひとりの能力を超えた事業を可能にする。
もっとも、財団が常に最適とは限らない。テーマがまだ定まらない段階で器だけ先に作れば、目的の薄い、運営コストばかりかさむ法人が残る。器の選択は意志の設計のあとに来るべきであり、その順序を誤らないことが、この世代の最初の分かれ道になる。スモールスタートとして既存財団の中に冠基金を設け、手応えを得てから自前の財団へ移るという道筋も、十分に賢明な選択である。
器の選択にも、個性が出る
イグジット起業家がどんな器を選ぶかには、その人の哲学が表れる。象徴的なのが、米国の事例である。フェイスブック(現メタ)創業者のマーク・ザッカーバーグとプリシラ・チャンが2015年に立ち上げた「チャン・ザッカーバーグ・イニシアチブ」は、伝統的な財団ではなく、有限責任会社(LLC)という形をとった。本人の説明によれば、財団の形では株式の移転に対する税優遇を受けられる代わりに、活動に制約がかかる。LLCにすれば税優遇は得られないが、非営利への助成だけでなく、営利企業への投資や政策提言までを、規制や開示義務に縛られずに自由に組み合わせられる。あえて税優遇を捨ててでも柔軟性を取る——その選択自体が、課題解決をビジネスの延長として捉える起業家的な発想を映している。
もちろん、この自由には批判もある。LLCには財団のような最低支出義務や透明性の要請がなく、創業者が拠出した資産を取り戻すことさえ制度上は可能である。公共性と私的支配のあいだのどこに線を引くか。器の選択は、節税の技術であると同時に、富と社会の関係をどう設計するかという思想の表明でもある。
日本のイグジット世代
同じ力学は、日本でも確かに動き始めている。ファーストリテイリングの柳井正氏は2015年に柳井正財団を設立し、海外大学へ進学する日本の若者への奨学金を中心に据えた。ソフトバンクグループの孫正義氏は2016年、孫正義育英財団を立ち上げ、高い志と才能を持つ若者を分野を問わず支援する場を作った。いずれも、自らの事業哲学——世界で戦える人材、傑出した個の解放——を、人を育てるという形に翻訳している。
より新しい世代の例が、メルカリ創業者の山田進太郎氏である。山田氏は2021年7月、私財30億円を投じる計画のもとで「山田進太郎D&I財団」を公益財団法人として設立した。第一弾の事業は、理工系分野へ進む女子学生への奨学助成である。会社がいまも成長の途上にあるなかで、現役の経営者が自らの名を冠した財団を立ち上げたこと、そしてテーマを漠然とした「社会貢献」ではなくダイバーシティという一点に絞り込んだことは、この世代の特徴をよく示している。器を作ること自体が目的ではなく、変えたい現実が先にあり、そこから逆算して器が選ばれている。
背景には、日本に約165万世帯の富裕層が存在するという構造もある(野村総合研究所の2023年推計)。その中でイグジットを経験する起業家は今後も増え、彼らが流動性と時間と問いを同時に手にする瞬間は、これからいっそう頻繁に訪れる。日本のフィランソロピーが厚みを増すとすれば、その担い手の一群は、まさにこの世代から現れるだろう。
イグジット世代が陥りやすい罠
とはいえ、この時期の高揚は、設計の質を下げることもある。いくつかの典型的な落とし穴を挙げておきたい。
ひとつは、事業の成功体験をそのまま持ち込む過信である。市場で勝った手法が、社会課題でも通用するとは限らない。受益者は顧客ではなく、成果は四半期では測れず、現場には外部者には見えない複雑さがある。謙虚に学ぶ姿勢を欠けば、善意は的を外す。もうひとつは、スピードへの焦り。すぐに成果を出したいという起業家的な性急さが、長期的にしか実らない領域への投資を遠ざける。そして三つ目が、器の先走り——前述のとおり、目的が固まる前に法人だけを作ってしまう失敗である。
これらの罠に共通するのは、「与える」を「事業を起こす」と同じ動作だと思い込むことだ。両者は重なる部分も多いが、決定的に違う点がある。事業は自分のために勝つ営みであり、フィランソロピーは他者のために退く営みでもある、ということだ。最も多くを与えた者が威信を得るという贈与の逆説を、イグジット起業家は身をもって引き受けることになる。
結び——第二の創業として
イグジット後の財団設立を、引退や社会的な体裁づくりと見るのは、おそらく浅い。それはむしろ、第二の創業である。一度目の創業で、起業家は市場に問いを立て、富という答えを得た。二度目の創業で問われるのは、その富をもって、今度はどんな問いを社会に立てるのかである。一度目より難しいのは、明確な勝敗の基準がないからだ。売上も時価総額もない世界で、何をもって「うまくいった」とするのかを、自分で定義しなければならない。
だからこそ、この第二の創業にも、一度目と同じだけの設計が要る。なぜ与えるのかという目的の言語化、それにふさわしい器の選択、共に走る専門家チームの組成。勢いだけで器を作るのではなく、事業を起こしたときと同じ知性をもって、与えることを設計する。富をどう使うかは、富をどう稼ぐかと同じだけの知性に値する——イグジット世代ほど、この言葉を自らの実感として引き受けられる人々はいない。
- 国税庁 No.3108 措置法40条 承認特例(株式等の現物寄付) ↗
- 内閣府 公益法人information ↗
- 美術コレクションの寄贈——コレクターは何を遺すのか——関連論考。
- アジアの新興フィランソロピー——中国・インド・韓国の富はどこへ向かうか——関連論考。
- カーネギーとロックフェラー——近代フィランソロピーの源流——関連論考。
出典・参照
- 山田進太郎D&I財団 設立に関する公表(2021年7月、公益財団法人 山田進太郎D&I財団/同財団および各種報道)
- 柳井正財団(2015年設立)、孫正義育英財団(2016年設立)各公式情報
- Chan Zuckerberg Initiative のLLC形態に関する公表およびM. Zuckerberg本人の説明(2015年)
- 野村総合研究所「日本の富裕層・超富裕層の世帯数と資産規模の推計」(2023年)
本記事は一般的な情報提供を目的とし、特定の財団形態や寄付行為を推奨・勧誘するものではない。また税務・法務に関する個別の助言を行うものではない。各財団・組織の活動内容は変更されうるため、最新の情報は各公式発表を確認のこと。