一枚の絵を買うことは、ひとりの目に映る世界を手元に留めることだ。だが優れたコレクションは、やがて個人の所有を超え、社会の記憶になろうとする。コレクターは死してなお、何を、どのように遺すのか。邸宅をそのまま美術館に変えた欧米の富豪から、日本の実業家が築いた私設・企業コレクション、そして散逸を防ぐための税制と制度まで、美術品を公共財として手渡す設計を静かに辿る。
- フリック・コレクション
- 鉄鋼業で財を成したヘンリー・クレイ・フリックの邸宅(1913〜14年建設)が、本人の遺志により美術館へ。1935年に一般公開された。
- バーンズ財団
- 1922年設立、公開を制限した「学校」。2012年にフィラデルフィア中心部へ移転し、遺志の解釈をめぐって長い論争を招いた。
- 大原美術館
- 1930年開館。日本で最初に西洋美術を常設展示した私立美術館で、大原孫三郎と画家・児島虎次郎の信頼が生んだ。
- 登録美術品制度
- 1998年施行。所有権を保ったまま美術館で公開でき、相続税の物納順位が最優先に引き上げられる。
- 納税猶予制度
- 2018年度に創設。美術館への長期寄託などを条件に、対象美術品にかかる相続税の80%が猶予される。
邸宅が、そのまま美術館になる
ニューヨーク五番街に立つフリック・コレクションは、もともと私邸だった。鉄鋼・コークス事業で富を築いたヘンリー・クレイ・フリックは、1913〜14年にかけて建築事務所カレール・アンド・ヘイスティングスの設計で邸宅を建て、集めた絵画をそこに掛けた。彼は遺言のなかで、この建物が「美術の研究を奨励し、関連する知識を広める」公共の場になることを望んでいた。1919年に本人が世を去り、遺族が住み続けたのち、建築家ジョン・ラッセル・ポープの手で改修され、1935年12月に美術館として一般公開された。人が暮らしていた部屋にフェルメールやベリーニが掛かる密度の濃さは、いまも「邸宅美術館」の理想形として語られる。
個人の情熱がそのまま制度になった例は、ソロモン・R・グッゲンハイムにも見える。彼は美術顧問ヒラ・フォン・レバイとともに1937年に財団を設立し、1939年に「非対象絵画美術館(Museum of Non-Objective Painting)」を開いた。カンディンスキーを150点以上含む約600点の抽象絵画は、のちにフランク・ロイド・ライト設計の螺旋建築(1959年開館)へと引き継がれてゆく。買い集めた作品を、器と組織ごと未来へ手渡す——これが欧米の富豪が選んだ「遺し方」だった。
「動かさないこと」まで遺す——バーンズの教訓
コレクターの遺志は、時に「何を集めたか」を超えて「どこに、どう並べるか」にまで及ぶ。アルバート・C・バーンズが1922年にフィラデルフィア郊外メリオンに設けたバーンズ財団は、その極端な例だ。医薬品で財を成した彼は、印象派・ポスト印象派の傑作を大量に収めながら、施設を一般公開の「美術館」ではなく、あえて公開を制限した「学校」として設計した。作品の配置も独特の意図で固定され、変更を許さなかった。
ところが後年、財政難を背景に、財団はコレクションをフィラデルフィア中心部の新館へ移す計画を進める。移転の是非は約10年に及ぶ法廷闘争となり、映画にもなった。2012年に移転は実現したが、「創設者の遺志を金銭のために曲げたのではないか」という問いは残った。遺志を厳格に固定するほど、時代の変化や運営の現実と衝突する。散逸を防ぐ設計とは、実は「どこまでを縛り、どこを委ねるか」の設計でもある。
日本の私設美術館——大原孫三郎の賭け
日本で最初に西洋美術を常設展示した私立美術館は、1930年に倉敷で開いた大原美術館である。紡績業などを営んだ実業家・大原孫三郎(1880〜1943)は、パトロンとして支えた洋画家・児島虎次郎(1881〜1929)に収集を託した。西洋名画の実物を日本の画家に見せたい——その児島の願いに応え、大原は購入判断を彼に一任する。児島は1920〜23年ごろを中心にパリで作品を集め、1922年にはエル・グレコ《受胎告知》を画廊で見いだした。友情と信頼が一つの公共財を生んだ、静かな逸話である。
国が受け皿になった例もある。実業家・松方幸次郎が第一次大戦期に集めた膨大な「松方コレクション」は、戦後、フランスに接収された一部が絵画196点・素描80点ほかを含む計370点として「寄贈返還」され、これを保存・公開するために1959年、ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館が開館した。個人の蒐集が、国立館の礎になった希有な経緯である。
家と企業が抱えた美——住友・三菱・石橋
日本では「家」と「企業」がコレクションの担い手になってきた。住友家が集めた中国古代青銅器約500点を核とする泉屋博古館は、京都・鹿ヶ谷に加え東京・六本木にも分館を持ち、世界的評価を受ける。三菱を率いた岩崎家では、岩崎彌之助(三菱第2代社長)が1892年に創設し、子の小彌太が拡充した静嘉堂が、国宝7件・重要文化財84件を含む古典籍と古美術を守り、曜変天目茶碗などを丸の内で公開している。
企業の名を冠したコレクションも根づいた。ブリヂストン創業者・石橋正二郎の蒐集は、1952年に東京・京橋の本社ビル内に開いた「ビルの中の美術館」ブリヂストン美術館として親しまれ、2019年に「アーティゾン美術館」へ改称、2020年1月に新館で再出発した。印象派から日本近代洋画、現代美術までを結ぶこのコレクションは、企業がメセナとして文化を抱え続ける形の一つを示している。
散逸を防ぐ設計——寄贈・寄託と税制
優れたコレクションが最も揺らぐのは、所有者の相続の場面だ。相続税の負担ゆえに名品が競売にかけられ、一括りだった収集が国内外へ散っていく。これを防ぐため、日本には二つの制度がある。一つは1998年施行の「美術品の美術館における公開の促進に関する法律」による登録美術品制度で、所有権を手放さずに美術館で公開しつつ、相続税を物納する際の順位が、一般の美術品では第3順位のところ、国債や不動産と同じ最優先の第1順位へ引き上げられる。もう一つは2018年度に創設された納税猶予制度で、美術館との長期寄託契約と文化庁の保存活用計画の認定を条件に、対象となる国宝・重要文化財等にかかる相続税の80%が猶予される。
寄贈は所有権を手放して公共に委ねる行為、寄託は所有を保ったまま管理と公開を託す行為であり、両者を組み合わせ、あるいは公益財団を設けて器ごと遺す設計が現実的な選択肢になる。税は目的ではないが、散逸を防ぐ設計の骨格として無視できない。
遺すことの難所——真贋と維持コスト
それでも、遺す道は平坦ではない。第一に真贋と来歴(プロヴナンス)の問題がある。名品ほど贋作や来歴不明のリスクがつきまとい、寄贈を受ける館は厳しい鑑定と調査を求められる。出所の不確かな作品は、受け入れそのものが施設の信用を損ないかねない。
第二に維持コストがある。温湿度管理された収蔵庫、保険、定期的な修復、そして運営を担う人と財源——作品は掛けておけば残るものではなく、静かに費用を生み続ける。だからこそ、器(建物)と作品だけでなく、それを回し続ける資金と組織まで含めて設計することが、コレクションを世代を超えて手渡す条件になる。コレクターが最後に遺すのは、絵そのものというより、絵が生き続けるための仕組みなのかもしれない。
出典・参照
- The Frick Collection「History of The Frick Collection」(1935年公開、邸宅は1913〜14年建設)frick.org/about/history
- Barnes Foundation / Wikipedia ほか(1922年設立、2012年移転)en.wikipedia.org/wiki/Barnes_Foundation
- Solomon R. Guggenheim Foundation / Wikipedia(1937年財団設立、1939年開館)en.wikipedia.org/wiki/Solomon_R._Guggenheim_Foundation
- 大原美術館「美術館の歴史」(1930年開館)ohara.or.jp/history/
- 国立西洋美術館「松方コレクション」(1959年開館、寄贈返還370点)nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html
- 泉屋博古館「住友コレクションについて」sen-oku.or.jp/tokyo/collection_t/history_ct/
- 静嘉堂文庫美術館(1892年創設、国宝7件・重文84件)/アイエム
- アーティゾン美術館「沿革」(1952年開館・2019年改称・2020年新館)artizon.museum/about-museum/history/
- 文化庁「登録美術品制度」/「美術品の美術館における公開の促進に関する法律」(平成10年=1998年施行)bunka.go.jp
- 国税庁「No.4154 特定の美術品についての相続税の納税猶予及び免除」(平成30年度=2018年度創設)nta.go.jp
本稿は公開情報にもとづく解説であり、税務・法務上の助言ではありません。年次・数値・制度の詳細は上記一次資料をご確認ください。相続税の物納・納税猶予や登録美術品制度の適用可否は個別事情により異なるため、実際の手続きにあたっては税理士・弁護士等の専門家および所轄の官公庁にご相談ください。