イスラム世界において、寄付は善意の発露である以前に、信仰そのものの柱である。資産の2.5%を毎年拠出する義務「ザカート」と、財産を永続的に公益へ捧げる寄進「ワクフ」。1400年にわたり運用されてきたこの二つの制度は、寄付を個人の気まぐれから社会の恒常的な仕組みへと組み替えた壮大な実験でもある。本稿では両制度の設計思想を読み解き、日本の寄付文化への示唆を考える。
- ザカートとは
- 一定基準(ニサーブ)を超える資産の原則2.5%を毎年拠出する宗教的義務。信仰告白や礼拝と並ぶイスラム五行の一つである。
- 使途の固定
- 受給者はクルアーン9章60節が定める貧者・困窮者など8類型に限定される。使途が教典のレベルで固定された、比較制度論上も稀有な寄付制度である。
- 世界規模(推計)
- 世界銀行とイスラム開発銀行グループの報告(2016年)等は、世界のザカートの潜在規模を年2,000億〜1兆ドルと推計する。推計には大きな幅がある。
- ワクフとは
- 財産の元本を譲渡・売却不能とし、その収益を指定した公益目的に永続的に充てる寄進制度。オスマン帝国期に社会インフラの中核を担った。
- 現代の展開
- UNHCRは2019年に難民ザカート基金を正式発足させ、2024年には25か国87万人超を支援。インドネシアは2020年に現金ワクフ連動スクークを発行した。
義務としての寄付——ザカートの構造
ザカートは「浄化」「成長」を原義とするアラビア語であり、信仰告白、礼拝、断食、巡礼と並ぶイスラム五行の一つに数えられる。任意の喜捨であるサダカとは明確に区別され、支払い能力のあるムスリムにとって選択の余地のない義務である。基準となるのがニサーブと呼ばれる最低資産線で、伝統的に金約85グラム(算定により87.48グラムとする例もある)または銀約612グラムの価値に相当する。これを1年間保持し続けた資産に対し、原則として2.5%——40分の1——を毎年拠出する。この比率はクルアーンに明記されているわけではなく、預言者の言行(スンナ)に由来する規範として法学者の合意により確立されたものである。なお2.5%が適用されるのは貨幣や貴金属、商品在庫などの資産であり、農産物には5〜10%、家畜には別の算定基準が適用される。富が滞留せず社会に循環すること自体を宗教的善とみなす思想が、この設計に反映されている。
八つの受給類型——使途を教典が定めるということ
ザカートの際立った特徴は、資金の使途が教典そのものによって固定されている点にある。クルアーン第9章60節は受給資格者を8類型——貧者、困窮者、徴収に従事する者、心を(イスラムに)近づけるべき者、隷属からの解放、負債に苦しむ者、神の道のために働く者、旅路に窮した者——に限定し、これを「神からの義務」と明言する。寄付の使途を寄付者の裁量にも運営者の裁量にも委ねず、規範のレベルで確定させるこの設計は、比較制度論の観点から見て稀有である。使途の透明性をめぐる不信が寄付につきまとうのは古今東西変わらないが、ザカートは「何に使われるか分からない」という疑念の余地を原理的に狭めている。同時に、8類型の解釈——たとえば「神の道のために」をどこまで広く読むか——は各国の宗教当局や法学者の間で今も議論が続いており、古典的規範と現代的ニーズの接続面となっている。
世界のザカートの規模——推計の幅をどう読むか
では、世界のザカートは年間どれほどの規模になるのか。答えは推計主体によって大きく異なる。世界銀行とイスラム開発銀行グループの共同報告(2016年)や、同銀行傘下の研究機関IRTI(イスラム研究研修所)の一連の研究では、世界のザカートの潜在規模は年2,000億ドルから1兆ドルという広い幅で示されてきた。年5,500億〜6,000億ドルとする推計が引用されることも多い。一方で、政府系のザカート庁や公認機関を経由して実際に徴収・記録される額は年100億〜150億ドル程度にとどまるとの推計がある。つまり大半のザカートは、親族や近隣、モスクを通じた非公式な形で流れており、統計には現れない。この「見えない寄付経済」の大きさこそ、国際機関や各国政府がザカートの制度化・可視化に取り組む理由である。いずれの数値もあくまで推計であり、算定の前提(ムスリム人口、資産分布、遵守率)次第で大きく変動する点は強調しておきたい。
国境を越える喜捨——UNHCRの難民ザカート基金
ザカートの現代的展開として注目されるのが、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民ザカート基金である。2017年の試行を経て2019年に正式発足した同基金は、複数の国際的な宗教機関からファトワー(宗教見解)を取得し、難民・国内避難民が受給8類型に該当することを確認したうえで、集めた資金を原則として全額現地の受益者に届ける設計をとる。UNHCRの年次報告(2024年実績)によれば、2024年には1,400万ドル超のザカートを受領し、22か国の47万4,000人以上の難民・国内避難民を支援した。任意の喜捨サダカも780万ドルを超え、両者を合わせると同年だけで25か国87万2,000人以上に支援が届いた。2017年の試行開始からの累計では31か国890万人以上を支援したとされる。国連機関が特定宗教の義務的寄付の受け皿となるこの構図は、宗教的規範と国際人道支援の制度的接合として、寄付研究の観点からも興味深い事例である。
ワクフ——「止められた財産」の千年
ザカートが毎年のフローを動かす制度だとすれば、ワクフはストックを固定する制度である。ワクフは「停止」を原義とし、土地や建物などの所有権を事実上凍結して売却・相続・譲渡を不能とし、そこから生じる収益を寄進者が指定した公益目的に永続的に充てる仕組みを指す。モスク、マドラサ(学院)、病院、隊商宿、公共泉——前近代イスラム世界の社会インフラの多くは、ワクフによって建設・維持された。その規模は現代の感覚を超える。19世紀初頭のオスマン帝国では不動産の半分以上がワクフ化されていたとする推計があり、現在のトルコに当たる地域では耕地の4分の3がワクフだったとの推計もある(いずれも歴史研究上の推計であり幅がある)。モスクを中心に学院・病院・給食施設・浴場までを一体運営する複合施設キュリエは、ワクフ収益で運営される「私財による公共圏」の到達点だった。近代国家の成立とともに多くのワクフは国有化・解体されたが、恒久基金によって公益を支えるという発想は、欧米の財団制度の遠い先行例と見ることもできる。
現金ワクフの再発明——マレーシアとインドネシア
不動産中心だったワクフを金融資産へ拡張する試みが、東南アジアで進んでいる。インドネシアは2004年のワクフ法で現金ワクフを法的に位置づけ、2020年には政府が現金ワクフ連動スクーク(CWLS)を発行した。寄進された現金を国債(スクーク)で運用し、元本を保全しつつ運用益を医療事業などの社会目的に充てる仕組みで、国家が受け皿となる世界初の試みとされる。インドネシア・ワクフ庁(BWI)は同国の現金ワクフの潜在規模を年180兆ルピアと推計するが、実際の累計調達額は2023年時点で約2.3兆ルピア、2025年2月時点でも約3.82兆ルピアにとどまり、潜在力と現実の乖離はザカートと同様に大きい。マレーシアではワクフを各州のイスラム宗教評議会が管理する分権体制がとられ、2017年にはイスラム銀行がデジタル募金プラットフォーム「myWakaf」を共同で立ち上げるなど、金融セクター主導の現代化が進む。元本を減らさず運用益で公益を支えるという発想は、日本でいう基本財産型の財団運営や大学基金のエンダウメントと本質的に通じるものである。
日本の寄付文化への示唆
ザカートとワクフから日本が学べるものは何か。第一に、寄付を「気持ち」ではなく「構造」として設計する視点である。ザカートは比率・課税基準・使途をあらかじめ規範として固定することで、寄付者の意思決定コストを劇的に下げている。日本でも遺贈寄付や毎月定額寄付のように、一度の決断で寄付が仕組み化される回路の整備が、寄付総額を左右するだろう。第二に、ストックを公益に固定するワクフの発想である。フローの寄付が景気や気分に左右されるのに対し、元本保全型の基金は世代を超えて公益を支え続ける。財団設立や大学・非営利組織への基金型寄付は、日本の資産家にとってワクフの現代的翻訳となりうる。第三に、推計と実績の乖離が示す教訓である。イスラム世界ですら、制度化され可視化されたザカートは潜在規模のごく一部にすぎない。寄付文化の成熟とは、善意の総量を増やすこと以上に、善意が流れる制度の水路を掘ることなのかもしれない。1400年の実験は、その水路の設計図として今も参照に値する。
- 財団・助成団体データベース——国内の財団・助成団体を分野別に検索できる。基金型の公益活動を知る出発点に。
- 遺贈寄付ガイド——資産を世代を超えて公益につなぐ遺贈寄付の基礎知識と手続きを解説する。
- 名を伏せて与える——匿名フィランソロピーの設計——関連論考。
- 効果的利他主義入門——「最も効く寄付」の思想と論争——関連論考。
- エンダウメントの思想——なぜ米国の大学は巨大な基金を持つのか——関連論考。
出典・参照
- クルアーン第9章60節(ザカート受給8類型の典拠、quran.com)
- UNHCR Refugee Zakat Fund「Islamic Philanthropy Annual Report — Impact 2024」(2025年公表・2024年実績、zakat.unhcr.org)
- World Bank / Islamic Development Bank Group「Global Report on Islamic Finance」(2016年、worldbank.org)
- IRTI(イスラム研究研修所)「Islamic Social Finance Report」(2014〜2015年、isdb.org)
- National Zakat Foundation Worldwide「Potential Global Zakat Pool: Demystifying the Numbers」(nzfworldwide.com)
- Badan Wakaf Indonesia(インドネシア・ワクフ庁)公表資料(2023〜2025年、bwi.go.id)
- ISRA International Journal of Islamic Finance「Viability of Cash Waqf-Linked Sukuk in Malaysia」(2020年、journal.inceif.edu.my)
- Britannica「Waqf」(britannica.com)、Yaqeen Institute「Financing Kindness as a Society」(2020年、yaqeeninstitute.org)ほかワクフ史研究
本稿に記載の数値は各出典に基づく公表値または推計値であり、推計には幅があります。ザカートの算定・納付など宗教実務については、各宗教当局・専門家の見解をご確認ください。本稿は特定の宗教的実践・投資・寄付行動を勧誘するものではありません。