科学の進歩は、しばしば予算年度の区切りとは無関係な時間の流れのなかで起こる。ある問いが実を結ぶまで十年、二十年を要することは珍しくない。だが公的資金も企業の研究費も、その多くは短い成果報告の周期に縛られている。この時間の不一致を埋める役割を、歴史のなかで私財が担ってきた。ハワード・ヒューズ医学研究所(HHMI)はその最も明確な範例である。本稿では、HHMIとウェルカム・トラストという二つの巨大な研究基金の思想と規模を一次資料で確かめ、日本の科学系民間財団の現状と照らしながら、私財を科学に投じるという選択の輪郭を静かに描いてみたい。

この記事の要点
HHMIの基金規模
ハワード・ヒューズ医学研究所は2023会計年度末で連結純資産242億ドルを擁し、年間およそ8億ドルを研究・教育に配分する(HHMI監査済財務諸表, FY2023)。
「人に投資する」思想
HHMIは研究者を助成対象ではなく職員として雇用し、個別の課題ではなく人物に賭ける「people, not projects」の原則を掲げる(HHMI, 2024)。
ウェルカム・トラストの規模
英ウェルカム・トラストは2023年9月末で投資ポートフォリオ368億ポンド、2022/23年度の慈善支出は17億ポンドに達した(Wellcome, 2023)。
日本の科学系財団
武田科学振興財団の2025年度助成は595件・総額約23.8億円、上原記念生命科学財団は同年度で約13.1億円と、いずれも堅実だが桁が異なる(各財団, 2025)。
官民の比重
日本の2024年度の研究費総額23兆7,925億円のうち企業が17兆4,300億円を占め、公的な科研費は2,377億円規模にとどまる(総務省・文科省, 2024)。

ある富豪が遺した装置

ハワード・ヒューズ医学研究所は1953年、航空機事業と映画で財を成した実業家によって設立された。設立者の死後、その保有株式と資産は研究所へ移り、やがて世界有数の医学研究基金へと成長する。HHMIは単なる助成機関ではない。自ら研究者を雇い、自らの資金で科学を営む「営為としての基金」である。2023会計年度末の連結純資産は242億ドルに達し、年間およそ8億ドルを研究と科学教育に投じている(HHMI監査済財務諸表, FY2023)。米国の慈善組織のなかでも屈指の規模であり、医学研究に特化した基金としては世界でも例が少ない。重要なのはその金額の大きさそのものより、資金がどのような時間感覚と哲学のもとに動かされているかにある。

課題ではなく、人に賭ける

HHMIを特徴づけるのは「people, not projects(課題ではなく人に)」という原則である(HHMI, 2024)。通常の研究助成は、申請者が具体的な研究計画を提出し、その計画の妥当性が審査される。だがHHMIの投資家(インベスティゲーター)制度では、研究者は詳細な計画書ではなく、自らの経歴と大まかな関心の方向を示すにとどまる。選ばれた者はHHMIの職員となり、給与、研究費、設備を含む長期の支援を受けながら、途中で研究の方向を変える自由さえ与えられる。支援は再任可能な複数年の任期を通じて続き、一人あたりの規模は決して小さくない。この制度が前提とするのは、優れた科学は計画からではなく、優れた人物の自由な探索から生まれるという信念である。

自由がもたらすもの

「人に投資する」方式が実際に成果を生むのかという問いには、実証研究がある。経済学者らがHHMIの投資家制度と、より短期・課題志向の助成制度を比較した研究は、長期かつ寛容な支援を受けた科学者が、後年になって影響力の大きい論文を生み出す確率が有意に高いことを示した(Azoulay et al., 2011)。失敗を許容し、方向転換を咎めない環境が、かえって独創的な成果を引き出すという逆説である。短い周期での成果報告を求めれば、研究者は確実に成功しそうな安全な問いを選ぶ。逆に時間と裁量を与えれば、彼らは容易には解けない、しかし解けたときに世界を変えるような問いに向かう。私財が担いうる固有の役割は、まさにこの「待つ余裕」を科学に供給することにある。

大西洋の対岸から——ウェルカム・トラスト

同じ思想は英国にも大きな器を持つ。製薬事業で築かれた資産を基盤とするウェルカム・トラストは、2023年9月末で投資ポートフォリオ368億ポンドを擁し、2022/23年度の慈善支出は17億ポンドに達した(Wellcome, 2023)。同トラストは十年で160億ポンドを投じる長期計画を進めており、その視野は単年度をはるかに超える。HHMIが個々の研究者への長期投資を軸とするのに対し、ウェルカム・トラストは感染症、精神保健、気候と健康といった広い主題に資金を配分する。方式は異なるが、両者に共通するのは、政府予算の周期からも市場の四半期からも独立した時間軸で科学を支えるという姿勢である。永続的な基金という構造が、この独立性を担保している。

日本の科学系財団——堅実さと、桁の違い

日本にも、私財を科学に投じてきた財団の系譜がある。1984年に実業家の私財およそ200億円を基に設立された稲盛財団は、京都賞を通じて先端技術・基礎科学・思想芸術の三部門で各1億円を贈るほか、研究助成を続けてきた(稲盛財団)。武田科学振興財団は1963年の設立以来の伝統を持ち、2025年度は595件・総額約23億8,350万円を助成、設立からの累計は総額436億円を超える(武田科学振興財団, 2025)。上原記念生命科学財団は2025年度に約13億985万円を助成し、1985年以来の累計は約398億円に及ぶ(上原記念生命科学財団, 2025)。いずれも長い歴史と確かな見識に支えられた活動である。ただ規模を国際的な基金と並べれば、桁の違いは明らかだ。日本の科学系財団の年間助成は数億から二十数億円の水準であり、HHMIやウェルカム・トラストの年間支出とは二桁近い差がある。

官が支え、民が薄い構造

この落差は、日本の研究資金の構造そのものにも映っている。2024年度の日本の研究費総額は23兆7,925億円で、そのうち企業が17兆4,300億円、大学等が4兆500億円を占めた(総務省, 2024)。研究開発費の対GDP比は3.70%と高い。だが、その内訳を見ると、民間非営利団体を通じた資金の比重は小さい。公的な競争的資金の代表格である科学研究費助成事業(科研費)は2024年度で2,377億円規模であり(文部科学省, 2024)、大学の基礎研究の多くはこの公費に支えられている。企業研究と公的資金が厚く、その間を埋める「篤志による長期の基金」という層が薄い——これが日本の風景である。裏を返せば、私財による科学支援には、まだ埋められていない余白が広く残されているということでもある。

富を、時間に変えるという選択

科学への寄付は、成果が見えにくく、感謝の言葉も届きにくい。だが、だからこそ私財にしか担えない領域がある。公的資金が説明責任のために短期の成果を求め、企業が事業性を問うなかで、時間そのものを研究者に贈ることができるのは、周期に縛られない私的な富だけである。HHMIもウェルカム・トラストも、その本質は金額ではなく、永続する基金という「構造」を通じて時間の余裕を制度化した点にある。日本の富裕層が科学への寄付を検討するとき、参照すべきはこの構造だろう。既存の科学系財団への寄付という道もあれば、冠助成や基金の設立という道もある。いずれにせよ問われるのは、富をいかに使うかではなく、富をどれだけの時間に変えられるか、である。それは静かで、しかし最も遠くまで届く選択の一つである。

出典・参照

  • ハワード・ヒューズ医学研究所「Consolidated Financial Statements(FY2023 監査済財務諸表)」2023年(hhmi.org)
  • ハワード・ヒューズ医学研究所「Investigator Program / About HHMI」2024年(hhmi.org)
  • Azoulay, Graff Zivin, Manso ほか「HHMI投資家制度の効果に関する実証研究」2011年(研究者への長期支援と高影響論文の関係、nintil.com / science.org 等の要約による)
  • ウェルカム・トラスト「Annual Report and Financial Statements 2022/23」2023年(wellcome.org)
  • 稲盛財団「京都賞・研究助成の概要」(inamori-f.or.jp)
  • 武田科学振興財団「2025年度研究助成の決定(595件・総額23億8,350万円)」2025年(takeda-sci.or.jp)
  • 上原記念生命科学財団「2025年度助成金決定(総額約13億985万円)」2025年(ueharazaidan.or.jp)
  • 総務省統計局「2024年(令和6年)科学技術研究調査」2025年(stat.go.jp)
  • 文部科学省・日本学術振興会「科学研究費助成事業(科研費)予算 令和6年度」2024年(mext.go.jp / jsps.go.jp)

本稿は公開された一次資料および報道をもとにした情報提供であり、特定の寄付・投資・税務上の助言を目的とするものではない。数値は各出典の公表時点のものであり、為替や会計年度により変動する。実際の寄付や基金設立にあたっては、専門家への相談を推奨する。